たゆたうくらげ

くらげちゃん

フッサールについて意識の志向性が事象そのもの?

ハイデガーにとって隠されているのは存在者の存在。認識の働きが問題になっているのではない。事象そのものへ定式化。

意識の志向性による対象構成そのものを解明する認識論(フッサール

が、ハイデガーにより存在論

 

ハイデガーの世界内存在

ハイデガーの世界

Ⅰ存在者の総体

Ⅱ現存在がそのうちにすみこみ、生きている場(その都度私を取り巻く世界)👈道具の連関

       単なる事物

       

ex.今、ズームのミーティングのうちで生きている。私にとっての世界はズームで開かれてるミーティング。

 

通常は考えないことを根本から考えようとすると、その事柄を言い表すための新しい概念が必要になる。それを理解しないと、哲学者が言わんとしてることが理解できない。理解できると、ああそうだったのか!( ´∀` )になれる。ひとたび理解しなければアカデミアの世界には入れません。

 

ハイデガーによると、存在とは気遣い

現存在は世界内存在として、この世界に投げ込まれ、世界のほうから「働きかけられ」何らかの「気分」のうちで己の可能性を「了解」しつつ「企投」していくのである。

が、その際自分を取り巻くさまざまな道具に異を配り、また己とともにいる他者たちを顧みて、最終的には己じしんを気遣いながら生きている。

 

何らかの出来事を心配しながらそのつど気を遣う我々。

道具を準備したり、自分を守ったり、相手のことを考えたり…

道具への気遣い:配慮的気遣い

他者への気遣い:顧慮的気遣い

 

過去のことを思い未来のことを考える、時間的なこと

 

顧慮的気遣い

・特定の他者から気遣いを取り去って、他者の代わりに尽力する。

他者が気遣うべき事柄を代わりにやってあげる。

ex.誰かがレポートに困ってる!代わりにやってあげるよ。

もうその人は自分でレポート書かなくていい。渡されたものを先生に提出すればいい。

他者に依存することになる。

災害時のボランティアで、支援に入る。支援が受けられることが当然となり、自分では何もしなくなる人々→ボランティアに依存。支配を受ける。自分ですべきこともしなくなる

重篤患者の世話をする看護師。ある程度回復してきてもすべてのことをしてあげる看護師。するといつまでも自立はできない。道具的存在者を気遣うことになる(あれもってきてこれもってきて)

 

ズームの授業では首から上しか見えてない

下半身に名に身に着けてるか気遣う必要がない!

大学に来るときは自分の身に着けている衣服によって自分を判断することになる。

服にしみがついてることで居心地が悪くなる→他者からどうみられてるかによって自分を了解

他者との区別や他者との距離を気遣う

SNSなどででしゃばらないように、他者との距離を気遣う。出しゃばっている他人がいたら均等化しようとする

日常的な現存在は、孤立した「自我」から出発して初めて「他者たち」を認識するのではなく、そのつどすでに他者たちと世界を分かち合いつつ存在している。

他者も現存在

他者と相互共存在してる我々

相互共存在している日常的な現存在は、おのれならざる道具や他者のほうからおのれを了解して主体的自己を見失った「世人」の状態にあり、人が言うことを「語りひろめて語り真似、つねに新たなことを追い求めては秋、それゆえ人々の公共的な理解はあいまいなままである。

世人の公共性のうちに自らを喪失し、本来的な自己でありうることからさしあたりつねにすでに脱落してしまう。

人と同じことしてたら安心だ

日常性の存在の根本様式を、ハイデガーは「現存在の脱落」せかいに脱落していること、という。

現存在は、このような事故を喪失した「非本来性」のうちにある。気遣いには、脱落への宿命も構造上ふくまれる。

 

この私が世界内に存在していることによって、世界内存在であることそれ自体に気遣って不安になる。

非本来性から本来性へと目覚めさせるきっかけは、不安という根本気分

生きているといずれ死ぬ

死とは最も固有(自分で引き受けるしかない)(いつやってくるかわからないから交渉できない)

追い越しえない可能性(永遠の生を望むこともできない)

いつやってくるかわからないけど、必ずやってくる可能性

普段我々は死を考えない。実はそれは、死からの逃避。考えないようにしてるだけ。我々は(現存在は)死にかかわる存在なのである。人間は生まれ出るや否や、ただちに死ぬ年齢なのである!

死に対する不安という、この不安の対象は世界内存在そのものであり、この不安の理由は、現存在の存在しうることそのものである。

 

終焉すること=生命が単に終わること(動物が単に命を落とす)

落命すること=現存在が「本来的に死亡することなく終わること」

死亡すること=現存在が、「己の死にかかわりつつ存在する仕方」

やがてくる自分の死にかかわりながら存在することは、死亡していることになる。

私たちは生きながら死亡していきつつある。死を考えないという仕方で、死亡しつつある。自分の死を先取りすることなく。いつだって死にかけの生命。生まれた瞬間から死にかけの僕ら。

 

先駆的決意性・本来性

死への不安のうちで、世人としての自己喪失状態から引き離され、単独化する。

いずれは死ぬんだけどみんなで死ぬことはできない。自分は自分であり、人と同じことしてたらイケナイ。

追い越し不可能性に向かって、自由におのれを開放し(死ぬ気になれば何でもできる)

あるべき自分自身の在り方を選び取る。

死を先取りすることによって、本来自分がなにしたいのか、その可能性を選び取る。

現存在は「気遣いの呼び声」である「良心」の呼び声におうじて「良心を持とうと石すること」において、死という可能性のうちに先駆する。

良心はひたすら不断に沈黙という様態において語る。つねに「おまえはそれでよいのか」と問いかける良心。~せよと具体的な内容をかたりかけてこない。

なんかもうつかれちゃったし…今日はもうやめよっかな→ほんとにそれでいいのか?(良心ボイス)

「死」をさきどりしたとき、おまえはほんとにそれでいいのか?

 

先駆的決意性において、現存在は本来的自己になる。自分の死までを先取りしながら、過去を踏まえつつ、こうしようと決めるのは本来的な気遣い。

存在の意味を問い、確かめる。現存在という存在者を問い、存在者の意味を問い確かめる。

問いかけるべき現存在は世界内存在者。現存在を現存在たらしめてるのは、気遣い。それが現存在の存在。現存在の存在をなりたたせる気遣い、存在の意味とは何か?→時間制。

現存在の存在の意味は、ハイデガーによると「時間性」

世界内部的存在者のもとでの存在として、己に先んじて世界のうちで既に存在している

何かを気遣うのは、未来を先取りし、過去を踏まえつつ、道具や他者を気遣う。

先駆決意性とは、己の最終的な未来を先取りする。もっとも自分らしい在り方であろうと決意する。

先駆的決意性がかのうであるためには、現存在が死を先取りし、自分のものとして引き受けていなければならない。

いまだ来ぬ自分の死という可能性を可能性としてしっかり見つめつつ自分自身をあるべき自分へと「到来」させることだとハイデガーは言う。

現存在は死を先取りすることによって、自らがすでに経てきたこれまでのありようを改めてありのままにひきうけ、時々の状況の中で道具と現に向き合い、決意しつつ行為していくことができる。

既在:過去はすでにあり続ける。自らがすでに経てきたこれまでのありようを改めてありのままに引き受けること。

現成化:その時々のじょうきょうのなかで既存している道具と現に向き合う

 

先駆決意性:既存しつつ現成化する到来によってこそ可能になる

 

時間性:自らの死という可能性をしかと見つめつつ自分をあるべき自分へと到来させることで…

 

先駆的に決意すると、自分の目指すものが見えてくる。それを選び取る。それが自分の運命なのだ。

生まれ落ちて生きている状況は、過去からの積み重ね。それを引き受けるしかない。その中で未来がきまってくる。それは運命。決意した現存在は単独化。他者とのかかわりをたつのか?→そうではない。運命的な現存在も、世界内存在であり、他者との共存在。共同運命。民族の生起。

決意した現存在は己の運命を選び取るが、そもそも他者と共存在しているので、現存在の生起は共生起。現存在の運命は共同運命

現存在は他者と共存在であるがゆえに、共同運命でもあると論ずることができるのはいかにしてだろうか。

決意した現存在:自分で選択した存在可能の目的であるものに基づいて、自分の世界に対して、自分を開放する。現存在は自分自身への決意性によってはじめて共存在する他者たちを彼らに最も固有な存在可能において「存在」させることができ、彼らのこの最も固有な存在可能を、さきにとんで(手本を示す)前に出て解放する顧慮的気遣い

 

手本を示して、他者にも先駆的決意するように促す。決意した現存在は、他者たちの良心になりうる。死ぬ気になった人間が、他者たちも死ぬ気にさせよう。

決意した現存在の運命は共同運命

自分の決意で、他者たちも決意させるため。

 

先生:存在論の暴走じゃねーか!ハイデガーの鼻持ちならないエリート意識が漏れてますよ!

 

ヒトラーを総統と仰ぐハイデガーにつながっていくのだ。(たしかにね)

 

ナチスに協力したという事実があっても、ハイデガー存在と時間において提示した現存在の存在論が、哲学史上、比類のない意義を有していることは確かだ。

 

看護のなかでも、ハイデガーの「気遣い」は非常に有効

 

 

むっず きっつ

無理

日常の現存在の在り方はあるある?人のこと気にしながら、人と合わせながら生きる

SNSは世人状態。ハイデガーはそれをよく映し出してる

自分の死を特権化するハイデガー(先生は反対)

 

死を自覚するのはいいことだと思うよ。明日なんてないと思えばたぶんなんでもできる。

 

到来=自分の死を先取り

きざい=これまでのじぶんをうけとめる

ズームの世界内存在は居心地が悪い先生