たゆたうくらげ

くらげちゃん

7/27 哲学概論

没交渉的なもの→死

自分の死を追い越すことはできない。では自分はどうしたいか、どう生きるのか、自分の在り方を決意すること。これが先駆的決意性。

自分ではなく他者にあわせるのは本来的な生き方ではない。

・自分が死ぬことを考えて怖くなってるのは非本来性から本来性への目覚めではない。怖いと感じるのは落命に対する不安。

なるべく死を考えないように、遠ざけてもやはり我々は死にかかわる存在なのだ。死にかかわる存在であるゆえに、常に死亡している。生まれるや否や死亡しつつある僕ら。

死亡=現存在が「己の死にかかわりつつ存在する仕方」

落命=現存在が「本来的に死亡することなく終わること」非本来的に死亡すること。自分の死と向き合わずに死んじゃうこと。先駆的な決意をしないままに。

自殺「死の実現を目指して配慮的に気遣いつつ狙っていること」

自殺「計算づくで死を思いのままにしようとすること」

 

死は追い越しえない「可能性」。可能性は可能性のままに持ちこたえねば。それを実現してしまうのは弱いことだから、自殺は弱いことだとハイデガーは主張。

 

我々は最初から共存在。一人でいても共存在。そうだとすると我々は共同運命。存在論的にはそういうこと。

 

メルロ=ポンティ

・我々の存在や認識における「身体」の働きに注目

 

・世界は先だってそこにあるもの。主観に左右されるものではない。

・世界に身を挺している主体

世界内存在としての私。(ハイデガーから影響を受けた概念)

・我々は徹頭徹尾世界と関係しているからこそ、そのことに気付くためには、このような世界と関係する運動を中止し、作用の外に置かなければならないのだ

・我々を世界に結びつけている志向的な糸を出現させるためにこそそれを緩める。

・世界全体を自分の内側に取り込んでしまうような思考はないんだ。

・還元のもっとも偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということ。

現象学的還元とは、まさにこの私を「世界内存在」する「実在」として見出すための方法

 

・形相的還元によって事実からその本質へと至らねばならぬことを強調したフッサール→メルロは、その際の本質とは「目的」ではなく、事実を認識するための手段。

・還元によって了解されるべき志向性も、世界及びわれわれの生の自然的で前述定的な統一を形成する「作動する志向性」であって、これは判断や意志的態度決定といった「作用志向性」よりも根源的なものだよ。

述定する:言葉にする、言語表現する「SはPである」など。

本棚が右側にある!→意識だけで本棚が立ち現れているわけではない。身体によっても立ち現れる。身体の志向性。

もコスタは触ってなくてもふわふわだとわかる。もこすたにからだをむけめをむけただけでふわふわなことがわかる。思考でもって判断する前にもこすたはふわふわなのだ。

 

世界内存在する我々がデカルト的な二分法をのりこえるようなs「身体的実存」であることを明らかにしていくメルロ。

・順調に身体が機能してるときは、身体がどのように働いてるのかわかりづらい。

〈幻影肢〉

切断された手足が痛かったりかゆかったり。幻肢痛

 

生理学による説明

抹消説:切断部位から大脳に通じる神経経路に加わった刺激が、切断された部位のそれとして誤って伝えられる。

→しかし、コカイン麻酔をしても幻影肢はなくならぬ。(抹消説ができなくなる)

中枢説:負傷した際の情動や状況を思い出させるような情動、状況が現れた時、それまで感じたことがなかったのに突然感じ始められたり。

 

心理学による説明

幻肢痛は患者が切断、欠損を拒否しようとする意志の表れである、とか、記憶や辛評に原因を求める

→脳に通じる求心性の神経を切断したらあっさり痛くなくなる。

 

幻肢痛がなぜ生じるのか、決定的な説明がなく原因がはっきりしない。

 

メルロ→物理的かつ相互人間的な在る世界のうちに参加している我、すなわち身体を媒質として世界内存在している私が、今までと同じく世界に存在し続け、欠損や切断を拒否

→例えば、字を書いたりピアノを弾こうとする場合、私の世界が私のうちに習慣的志向を呼び起こす、ちょうどその瞬間に「わたしがもはや実際にはその世界と合体することができない」ことから生じる

→我々が習慣的身体と顕在的身体というはっきりと区別される二つの層を身に着けており、顕在的身体の層からは袖に消えてしまっている、例えば手で触ってみる所作が、習慣的身体の層ではまだすがたを見せているからこそ、幻影肢、幻肢痛は起こる。

もう腕はないのに腕がある頃の記憶が残ってる。体が覚えてる。シロー…

顕在的身体は意識的

習慣的身体は前意識的

「身体図式」の組み換え、更新が行われることによって幻肢痛がばよばよ

我々は自分で自覚している身体の下に、自覚してない能力があり、それが我々の日々の生活を支えている。

 

間身体性

我々の体は個々にバラバラなのではなく、繋がってる。交流してる

身体と身体が相互に関係しあってる。

信号がまだ赤なのに隣の人が歩きだしたら自分も応ずるように足を踏み出してしまう:間身体性

身体同士が自覚する手前のところで交流しあっているのだ。私の体が他者の体をいわば併合してしまうのだ。私の右手と左手の間で一種の反省が起こるのは、それがただ一つの身体の手だからである。

メルロによれば、なにか、だれかが意味を帯びて経験されるのは、その表れのいわば手前で、時間の厚みを備えた身体が間身体的に志向性をはたらかせているから。

精神と物体を峻別した近世的に言論に対して、我々の存在には体が関係しているから何とか覆そうとした