たゆたうくらげ

くらげちゃん

0706 哲学概論

この紙は白いのである→白い紙をみるのは知覚。

キーボードうちづら!!

 

紙に書かれた三角形を見る感性的知覚(という基づける作用)に基づけられて、三角形という理念を見て取る普遍的直観がなりたつ。

・マッハの絵の左側にある物に関して、我々は「本」という意味合いでとらえる

↓どういうことか?

・対象が意識に与えられる。意識に与えられているのは背表紙の部分。それを本としてとらえる。意識に与えられる与件を本としてとらえる。対象は意識の外側。対象が意識として表れてきて、我々は本としてとらえる。我々は与件を意味としてとらえる。与件を「何か」としてとらえる。これには意識の志向性が働いている。

 

・意識の志向性に普段は気づかない。

例えば、今私はパソコンを見ている。先生が説明していることを理解しようとする。すると、私の関心は画面と画面内の事柄に向かってる。この状態は、意識の志向性が盛んに働いてる状態。しかしそのことに気付いていない。我々の意識の志向性はまっすぐ対象に向かってしまう。フッサールは、その意識の志向性自体を解明しようとした。

 

・私がもつ対象に向かう関心を括弧にいれる。括弧に入れることで、対象がどのように意識に向かってるのかに関心が向く?(与件、意味の段階に関心が向くということ)

 

・対象に向かう意識の働きをいったん置いて、対象に向かう意識そのものに関心を置く。

・先生をみると…後ろにたくさんの本がある。しかし先生のシルエットで隠されてる部分もある。しかし、わたしは先生で隠されてる部分にも本があると思うし、背表紙しか見えてなくても本だと認識する。👈意識の志向性を働かせているから。

 

・私たちの意識にはその都度身の回りの何かが何かとして表れているが、それは意識に何かが現象してくるいわばその手前で、意識が常に志向性を働かせているから。

志向性…意識に与えられる与件を何らかの意味合いのものとしてとらえようとする意識の働き)

・意識の志向性によって意味を帯びて現れている対象のほうに関心や注意を向けているので、意識の志向性の機能は自覚されることなく、いわば素通りされてる。

そのため意識の志向性の働きを明らかにするためには、意識に表れてる対象ではなく、まずもってその現象そのものに関心を向けるための「方法」が必要。

フッサールは、意識の志向性をみつめるために「現象学的エポケー」を行う。

 

・世界を括弧にいれる→世界を失う?いやそうではない

括弧に入れられた世界は意識に表れているんだから、世界の意識へのあらわれ!

 

・意識の自我がひゅれーをなにかとしてとらえる働きをノエシス

意識によってとらえられた限りでのものをノエマ

 

・意識の志向性の働きをノエシスの働きという。この働きによって世界は何らかの意味を帯びる。世界という意味→ノエマ

フッサールは超越論的現象学をたちあげる。

・世界は、自然科学的な自然(数学化された世界)

 

・自我は、何かが与えられたときにそれを意味としてとらえた場合に、いつも同じようにとらえるのではない。こないだと同じものだ!と捉えたら意味合いが変わってくる。

純粋自我が、持続的な関心や様々な習慣性を備えた自我であることが次第に明らかになっていく。意識に同じものが与えられても同じ意味は持たないことが明らかに。

志向的体験において、自我によってとらえられる志向的対象のほうも、そのうちに意味の歴史をもつことになる。きのうみたもの→きのうみたやつ、って意味を持つように。

意識の自我や対象の意味の発生の歴史をさかのぼって問う「発生的現象学」を遂行しなければ、意識の志向性による世界の意識的構成のありさまをあまねく解明したことにはならない!!

 

間主観性

・じつはわたしたちは、本を見た時、ほかの人々の意識にも同じように本として表れている、あるいは現れうるものだと思い込んでる。

このような意識の在り方を、フッサール間主観性と呼んだ。

 

・物事や人々がその都度意味を帯びて意識に表れ、経験さるる、その意味減少、意味経験が・・・